現在の前田地区と先人たち
現在の前田地区は人口約2万8000人(平成27年度調べ)。総面積8,44㎢。下手稲通や石狩手稲線に小売業や飲食サービス業が集中しています。営業中の店舗は約半数が小売業です。今日の[前田地区]の発展に至るまで、先人たちの苦労があったことを忘れてはなりません。
明治・大正・昭和・平成と時代を歩んできた[前田地区]。そして、時代は令和です。この記事を読んで「これからの時代を担う若い世代、そして子どもたちが自分の故郷に愛着をもつ」その一助になることができれば幸いです。
それでは、[前田地区]の今昔スタートです。
お殿様が前田地区の由来?
結論から先にお伝えすると、加賀100万石で有名な前田家が[前田地区]の由来となっています。
戦国時代、前田家は織田信長に仕え、功績をあげ、能登国(現・石川県北部)を領地とする大名になりました。歴史の授業で習った関ヶ原の戦いでは、徳川方について、領地を増やしました。その当時、加賀国(現・石川県南部)・越中国(現・富山県)・能登国(現・石川県北部)を治めており、計119万石あったそうです。(全藩のなかでもトップクラスでした)
前田農場のスタート
1895年(明治28年)に加賀藩の第15代目当主・前田利嗣(としつぐ)候が[前田地区]に入植し、前田農場の経営をスタートさせました。前田農場は、実は日本で初めて酪農を中心に開拓を行った農場です。
いきなり加賀藩から[前田地区]へ入植したわけではなく、後志管内共和町前田地区、石狩茨戸地区(既存の農場を買い取る形で入植)で農業が成功したための決断だったようです。【前田地区】へ入植した当初は、まだ石狩の茨戸地区が本場で、前田農場は支場でした。
なぜ前田家は北海道へ?
その理由は、
①明治維新で武士や農民という身分制度がなくなり、たくさんの失業者(元武士たち)が出たため。
②失業者に仕事を探すと共に、新たな職業訓練を行うことを決心したため。
①・②の理由から、北海道で農場を始めたのです。
利嗣候は、アメリカやヨーロッパへの留学で酪農や畑作について学び、直営の大農場方式で畑作や育牛、牛乳の生産、チーズやバターなどの加工や販売で利益を上げようとしました。
1908年(明治41年)前田農場の総面積は2006ha(20,06㎢)を所有。農場ができてから、15年間で6倍以上にも広がりました。
そんなに大きな農場は日本全国を探してもあまりなかったので、とても注目されました。
15代目~16代目へバトンタッチ
1900年(明治33年)利嗣候が病気のために、亡くなりました。享年42歳でした。16代目の利為候へ代替わりし、利嗣公が固めた基礎を利為候はさらに発展させます。
次回は利為候の活躍にスポットを当ててみていきましょう。
では、お楽しみに。
参考文献
・手稲郷土史研究会 他
東宮駐輦記碑移設記念誌
知られざる手稲と加賀百万石
~手稲前田と前田農場~
東宮駐輦記碑移設委員会 2013年 P.P5~13、
・発足十周年記念誌
手稲郷土史研究会 堀り伝える 2016
P.16 P.P48~49
・史料に見る手稲の今昔
手稲歴史年表/編集・発行 手稲郷土史研究会
・関秀志、池田茜、榎本洋介「札幌の地名がわかる本」
亜璃西出版 2018
・【PDF】81手稲区(手稲地区)]―札幌市
(最終閲覧日 2019年12月31日)
https://www.city.sapporo.jp/keizai/shotengai/documents/10teine1.pdf
・札幌市手稲区役所ホームページ ていねっていいね 手稲で見つけた手稲のはなし
(最終閲覧日 2019年12月31日)
https://www.city.sapporo.jp/teine/tthanashi/index.html
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