手稲区の今
手稲区の人口は約14万2000人、面積は約57㎢です。札幌市10区の中では6番目の広さがあります。1989年にそれまでの西区から分区して、手稲区となりました。JR手稲駅の乗降客数は札幌駅、新千歳空港に次いで、なんと道内3番目です。
昨年(2019年)は、手稲区誕生から30周年。年間を通じて様々なイベントが催されました。11月には、手稲区親善大使の三浦雄一郎氏によるスペシャルトークイベントが手稲区役所にて開催され、会場は盛り上がりを見せました。
また、手稲区の北部にある山口地区では農業が盛んで、「サッポロスイカ」や「大浜みやこ」(かぼちゃ)が有名です。
西区から分かれて、30年の月日が経ちましたが、それ以前はどのような歴史をたどってきたのでしょうか。手稲の歩みについて、見ていきましょう。
手稲の始まり
手稲地区は、農業から始まったと言われています。1871年(明治4年)に稲穂地区に入植したのが始まりで、1872年(明治5年)2月、上手稲宮の沢付近に47戸241人が入植(片倉家臣団)。続いて同年5月、発寒村から分離して、手稲村となりました。これが手稲の発祥です。
手稲の語源はアイヌ語で「濡れているところ」を意味する「テイネ・イ」からきています。その言葉にも表されているように、湿地や泥炭地が多いところとして知られています。
手稲の発展3要素
手稲の発展には、3要素が深く関係していたと推測されます。
①.鉄道の開通
1879年(明治13年)小樽~札幌間に鉄道が開通。軽川駅(現・手稲駅)が開設されました。駅が開設されるや、軽川駅を中心に商店街が形成されます。それに伴って、物資が集散され、人口が集中するようになりました。それが手稲発展の基礎になったと言えます。
②.手稲鉱山の開発
1935年(昭和10年)三菱金属工業が手稲鉱山を開発し、操業を開始。人口が急増しました。当時、手稲村(1951年に手稲町となる)の人口は50%が手稲鉱山で占められるほどになっていました。戦後、手稲鉱山は閉山されましたが、緩やかな発展の途上にあったのです。
③.札幌市との札幌市との合併
前述したように、1951年(昭和26年)、手稲村は手稲町となりました。これ以降、手稲町は札幌市のベッドタウンとして、着実に足場を固めてきていたのです。札幌市との合併問題が急に具体化し始めた理由は、冬季オリンピックが札幌で開催されることに決まり、その会場の1つとして、手稲山が使われることになったためです。そして、オリンピックを5年後に控えた、1967年(昭和42年)3月、手稲町が廃止され、札幌市との合併が決まりました。
いかがでしたでしょうか。
【手稲の今】から始まり、【手稲発展の3要素】まで足早ではありましたが、見てきました。この記事を読んで、少しでも手稲に興味や関心を抱いていただければ、筆者として、大変嬉しく思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考文献
・(発行者)
手稲連合町内会連絡協議会 会長 吉田秀二
手稲鉄北連合町内会連絡協議会 会長
北見茂
編集者代表 山本茂
「手稲開基110年記念誌 手稲の今昔」
1981年 P.P1~3 P.P7~18
・手稲郷土史研究会 他
東宮駐輦記碑移設記念誌
知られざる手稲と加賀百万石
~手稲前田と前田農場~
東宮駐輦記碑移設委員会 2013年 P.P5~9
・発足十周年記念誌
手稲郷土史研究会 堀り伝える 2016
P.16
・村本健治(手稲郷土史研究会会員)
「ポプラは見ていた~手稲歴史物語~」
2016年 P.P7~11
・関秀志、池田茜、榎本洋介「札幌の地名がわかる本」 亜璃西出版 2018
・郷土史ていね 会報 第137号(P.2)「遺構・遺物は語る」 [泥炭]2019
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